某報道機関の取材の質問に触発されて考えたこと

第2版 2013年3月16日

まえがき

当事者としての原発事故、非当事者としての津波災害とこれからの自分の人生の在り方について、避難して少し精神的に落ち着いてきた1か月後ぐらいから、いろいろ考え始めた。何せ、避難所生活はやることが少なく、自由時間がたっぷりあったのだ。
 しかも、孫が風疹を発症して我々家族だけが大勢で暮らしていた大広間からこれも大広間だったが別の部屋に一時的に隔離され、この時は、他に邪魔されないで考えることができた。
 しかし、この時は、考えがまとまらず、運命とは、生きると言う事とはなどと、堂々巡りしていた。
 その後、幸いにも5月に借り上げ住宅扱いの市営の団地に入ることができ、その後に農地を借りられて、百姓仕事が出来る様になり、畑を耕している時間などでも考えていた。
 大体考えがまとまりだしたのは、昨年ぐらいからであり、それに伴って、前向きに考えられるようになった。

運命について

今回の事は、定年退職後、福島県の浜通りである飯舘村に家内と移住していなかったら遭遇していなかった。
 しかも、その後、村で米粉パン屋を募集していて、小麦パンを家内に作らせてたため、我が家に目を付けられ、家内一人では学校給食は難しかったので、娘を呼び寄せ、手伝わせたことにより、孫二人と娘もここに住むことになり、一緒に被災することになったものだ。
 もし移住していなかったら。
 もし、当初探していて鳥海山の麓付近に適当な土地があったら。
 もし、家内に小麦のパンを作らせていなかったら、結果として、娘も来ることはなかった。
 もし、ベントの時の風向きが海側へだったら。
 電気は13日午後に復旧し、14日までのテレビ報道を見て、原子炉の爆発に対しての政府の発表に違和感を覚え、その日に避難したが(この時は自主避難だった)、もし、15日(放射能を含んだ雪が降った)まで復旧していなかったら、それができなかった。
 もし、ガソリンが潤沢だったら秋田の実家まで戻っていて、この新庄市にはいなかった。
 もし、飯舘村が全域計画的避難区域に指定されなくて(指定されたのは4月12日である)、自主避難のままだったら、途中で村に戻っていて(実際に4月11日には村に戻る決心をしていた)、新庄市にはいなかった。

もし、金山町の役場で担当者とたまたま出会えて、その時、空き家を紹介してもらわなかったら。
 もし、今借用している農地は、その前年に借りた人が持ち主に返却していなかったら。
 もし、この土地を新たに借りたいと言う人が居なかったら。
 ここ金山町杉沢にはいなかった。

大雑把に振り返っても、今回に関連するこれだけの大きい人生の岐路があり、それを意識する、しないに関わらず、ある特定の方向に進んだことによって、今現在の状況がある。

夜の寝る前に少し時間があれば、インターネットでの番組配信を見るときがあり、その番組の中に「深夜食堂」と言う小林薫が主演のテレビドラマがあった。
 深夜から朝まで営業する食堂での運命の出会いと、単なる行きずりの出会いが展開され、人と人が出会っても、互いに何の影響を及ぼさなケースと、互いの人生に大きな影響を与え、主人公のアドバイスを含めながら人生の岐路となる場合が描かれている。

いみじくもドラマのように、自分の人生に影響のある出会いや出来事と無数の何の関係もないそれらが日常的に展開されて、時が過ぎていく。そしてその岐路を通って今の自分がいる。これが運命であろう。

そして、残り少ない人生とはいえ、この先、周りで起きることや、自分の行動にたいして、どんな反応があり、選択肢があるか、良い事や悪いことを含めて、発生する事象を心待ちにしていて、過去を振り返る余裕が無いと言うのが現在の心境である。

家内や娘、孫の人生に与えた影響

結果として、家族の人生に大きな影響を与えてしまった事には、責任を感じている。
  しかし、人生には岐路はつきものである。
  今回の出来事が、それぞれの人生にとって、単なる運命のいたずらなのか、必然で意味を持つ事だったのか、それが良かったのか悪かったのが、そのどちらでもないのかは、かなりの長期で考えてみる必要があると思う。

できれば、人生がこの先どう展開していくか、見届たいと思っているが、こればかりはどうなるか、行かんともしがたいところではある。

どうして避難先での農業の再建にこだわるのか

定年退職後の第二の人生は農業に携わって生きていこうと決心し、飯舘村に移住した。
  そこを終の棲家とすべく、全財産をつぎ込んだと言っても過言でないくらいの資金を投入した。さらに、足かけ7年の歳月と汗水をついやし、やっと農地として満足のいくものに仕上がったやさき、この事故である。

自分の第二の人生に掛けた思いをとんでもない連中のせいで投げ出したくない事と、人生の目標を失った人が如何にもろいかいろいろ見聞きしているから、避難先での農業をささやかながら2011年の5月には再開したのである。

国の計画では、2年以内に農地を再生し、帰農させるとの事であるが、現実的に農地の再生がこんな短期間でできるとは、ほとんどの村民は思っていないだろう。
 除染計画の大幅な遅延といい加減な除染作業やほとんどが手つかずである田畑に使用する水の問題、ため池、河川、沢水などの安全性、大雨での河川への土砂、落ち葉、枯れ木などの流入による再汚染などが片付かない限り、安心して帰村や農業再開できない。
 これらが片付くのはかなりの先になりそうで、それを待っていると、加齢で作業ができにくくなる年齢に近づいていく。

したがって、村での農地の再生を待っていたのでは私の人生が間に合わなくなるので、避難先で本格的な農業を再開し、第二の人生の再出発を図りたいと思っている。

避難先での農業などの再建には国の手助けが必要

村で行ってきたような本格的な農業は、設備投資が必要である。

計画的避難と言っても、農機具類はほとんど持ち出すことができない状態で避難している状況で、村に長期間放置していた農業機械類は故障していて、そのままでは使用できないものが多い。

しかも、ハウス、作業小屋は当然持ってくることができない。

新たに避難先での農業の再開には、村での投資と同等の多額の資金が必要となるが、村の土地や設備に多くの資金を投入していて、不可能である。
 したがって、賠償などの手段で資金を回収できない限り、再投資は出来ない。
 国策としての原発でこのような状況になったからには、村にある財物を担保として再投資できるような手だてを国として用意もらえると、その資金で再建は可能となる。
 このための原資は、限りなく膨らむであろう除染費用に比べると、残念ながら、時間の経過とともに営農意欲の衰えのために、その支援の対象の減少する可能性が高く、結果的には微々たるものであろう。
 さらに、避難先での営農の再開は、飯舘村で農業が再開できたとしても、避難先での長期のブランクがあった場合、簡単には農業に復帰できない可能性が高い事への対症方法でもある。
 これらを勘案すると、国が避難先での営農を支援しても、政策としての整合性は取れていると思う。

私の農的生活とは

私は、家族と土と天候と作物と草と虫と人と死ぬまで生きようと思う。
 これが私の農的生活である・・・・と思う。
  汗水流して育てた、育ってくれた作物を家族や自分も食べられる幸せは、最高の贅沢ではないだろうか。
 これが私の農的生活である・・・・と思う。 

あとがき

第一版 2013年3月11日 初版
 第二版 2013年3月16日 再校正訂正と文言訂正

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